国境の街 村山謙二さん

村山さんが写真学校に入学しようと思ったきっかけは?

高校の時は、バスケット部だったりしたので、スポーツカメラマンになりたかったんですよね。雑誌:Numberなどを良く見ていて、憧れていましたね。
―親御さんは?
うーん、特に反対はしていませんでしたよ。今でもそうですが、元々「写真」に興味が無いと言うか。でも応援はしてくれますよ。
―学校選びのポイントは?
日本写真芸術専門学校と他の学校を1校検討しましたが、3年間は長いという事と家から近いということで選びました。

在学中エピソードなどがあれば、教えてください

日本写真芸術専門学校に入学した瞬間、スポーツカメラマンではない道に進みましたね。「あぁ、こんなにも写真の世界って色々あるんだなぁ」って実感しました。それは染谷先生の授業だったり、1年次の課題だったり。
―で、2年次には報道写真科の樋口ゼミ(当時)へ?
ですね。もう、ドキュメンタリーの世界が面白くて。テーマ作品は霞ヶ浦(茨城)の漁民をモノクロで撮影していたのですが、授業で提出する度に裁断機で写真を切られましたね。でも、切られた後の残った写真の一部が本当に表現したい部分だったりすると、すごく「はっ」として。だから今でも先生に切られた作品は全部保存しているんですよ。(笑)
樋口先生のお陰で、学生時代に身につけたのは「被写体に寄らないと引けない」という事。それは、今回の取材でも活かされています。
―-というと。
カメラはNikonのF3。 レンズは28mmと35mm。やっぱり一度寄らないと撮れないですよね。だけどこの写真展を樋口先生が見てくださったら、やっぱり切られるかも。(笑)

この作品は何時頃から取り組み始めたのですか?

最初に取材したのが2005年10月に中国・北京から内モンゴル自治区、そしてモンゴルに入国しました。3週間の滞在でしたが、やはり「国境」というもので違いがあって、作品になるだろうという手応えを掴みました。日本は国境を海で仕切られていますから、おそらく大部分の日本人の方は味わえないのではと思います。
当時は中国内も撮影の規制が無く、割と自由に撮影出来ました。今は逆に撮影しづらいかもしれません。

作品制作中のエピソードは?何かトラブルとか?

(写真展の中に一枚、おじさんが睨みつけている写真があり、聞いてみる。) いや、だけど取材中に怒られた事とか特にないですね。たまに写真を見せてくれと頼まれるんですけど、先ほど申し上げた通りF3でフィルムカメラですから、液晶画面が背面に無く、スゴく驚かれる場合もありました。もう時代はデジタルですよね。
―(地図を見ながら)もうほとんどの中国と国境を接する国に行かれたんですか?
この写真展を展示するまでに計7回取材に行きましたが、まだ半分も行っていないと思います。そもそもミャンマーと北朝鮮の国境に関しては外国人が簡単に通過出来るイミグレーションがありませんし、インドとの国境も同じ感じです。でも今回の写真展である程度は中国のアウトラインのイメージを見せられたのかなという想いはあります。
―なるほど。国境にも色々ありますね。あと印象に残った国境などは?
最初に取材した内モンゴル→モンゴルも印象深いですか、ラオス→雲南省も印象に残りますね。ここは『街』の大きさが全然違ったんですよね。ラオスの街は本当に小さいのですが、雲南省はスゴく大きくてパワーがあり、『国境』の存在を大きく感じました。

これからの活動について。

この国境シリーズを様々な国で続けるか、日本に場所を移して。とも考えています。10年後・20年後の中国国境をもう一度撮る。というのも良いかもしれません。確実に変化しているでしょうから。 仕事は結婚式の撮影などをしています。しばらくは取材との二足のわらじになるでしょうね。

ここで、恩師:樋口健二副校長先生が写真展会場にいらっしゃる。

これから写真の世界に入る人へコメント

写真を良く見、取材を続ける事が大事。と樋口先生にアドバイスを学生時代から頂きました。 『継続は力なり』・・・本当にそう思いますので、是非頑張って写真撮影を続けて下さい。
どうもありがとうございました。

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