彼岸の頃の朝顔
祖母が生前、家の目の前の壁のところに花をたくさん植えていたのを知っていたけれど、その中にもちろん紫陽花も朝顔もあって、でも僕がこの間一時帰国したとき、夕方でも朝顔が咲いているのを見ておかしいなと思って近付いてみたら造花がそこにぶらさがっているだけで笑ったものだけれど、今回はちゃんと本物の朝顔が花を青空に向けて開いていた。もちろん造花の花もぶら下がったままだったけれど、枯れた紫陽花と造花の朝顔と生花の朝顔がなんとなくそこに並んでいるのがいいなぁと思ってしみじみしてしまった。
昨日一昨日とお彼岸なかばの土日ということもあって、初彼岸を迎えた僕の家にたくさんの親戚の方々が来てくれた。その時は祖母が亡くなったんだという事実を、至極簡単に、ありのままに受け入れることが出来た。というのも周りのみんながそれを現実として当たり前に振舞っているからで、そうでもなければ普通に生活とか社会とかは死人のためにグズグズしてなければいけないけれど、実際割り切っていくしかないとわかっている人がちゃんと多いからこんな風になる。それを自然に受け入れてる自分もその一人なんだろうなぁと思ったり。
でも、平日になって、お彼岸も終わっていなくても、ここまで静かで、夕暮れの秋の陽射しが家の中まで入ってくるようになると、静けさはそのまま静寂になっていってしまって、この家にずっといた祖母のことを一々思い出してしまう。祖母は専業主婦で、この家が建ってから20年間、ほとんどをこの家で過ごした。たまに外出したり旅行に出たりはしたけれど、そういうのを除けばずっと家にいた。その祖母がたてていただろう生活音とか、吐息の音とか、演歌のカラオケのテープにあわせて口ずさむ声とか、近所のおばちゃんが遊びに来て談笑してる声とか、野菜を刻む音とか、寝息とか、テレビをじっと見ている時の息遣いとテレビの音とか、そういういろんなものがごっそりと持ち去られたようで、その合間を埋めるように僕が音楽をかけてもその空虚感というか、欠けてしまった感じはぬぐえなくて、結局静寂を背中に感じてしまう。
外から虫の声が聞こえる。
すずめの鳴く声がする。
隣の家のベランダで奥さんが洗濯物を取り込む。
近くの道路をトラックが走っていく音がする。
犬の鳴き声がする。
祖父が咳き込んでいる。
風。
全ての音の隙間。
そしてまた風が吹いて虫が鳴く。
今日は一日中家にいて、自分がこの半年で撮ってきた写真のベタと睨めっこ。多い!って言ったら逃げになるのかわからないけど、多くて、一日に見たい量じゃないなと思い、途中キリのいいところで第一弾切り上げた。明後日までに一通りは全部見たいから、今夜、もう一度続きをやろうとは思う。

