雨の匂いを嗅ぐたびに昔のことを思い出す
一日、雨が止まずにすっきりしない一日だった8月31日。シンガポール日記その③。
とはいっても昨日、一昨日とちょっとテンションが高めなままきてしまったので、そろそろ戻そうと思う。なんて言うと、まただらだらした文章が続くのかと思われるかもしれないが、その通りなので否定はしないけれど。
気付けばもう8月も終わるというのに夏を満喫するようなことなんて何も無くて、わかりきってはいたけど、九月になろうとしていて、僕たちが日本に帰る頃には九月も半ばになっていて、晩夏というか初秋というかなんとも言いにくい季節になっているんだなぁと思うと、こういう雨もその頃には親しみをこめて感じられるのかもしれないと勝手に思った。雨。撮影がこう、立て込んでいるというか、「やるぞっ」という気分の時にはすごく憂鬱な天気だ。昨日の土砂降りのおかげで靴がぐしょぐしょになっていたのでサンダル履きをつっかけて、傘を肩にはさんでカメラを斜めにぶら提げて。端から見たら酷く滑稽な格好だけれど仕方なくて、そうでなくたって雨の日は光が落ち込むのにこんな格好だから手振れを気にせずにはいられなくて、撮影するときは歩いているときの数倍滑稽になる。首と肩で傘を挟んで、カメラを目の位置まで持ち上げて、震えないように足は蟹股で踏ん張って、じっとこらえてシャッターを切る。なんて無様。
今日はマーライオンを拝もうじゃないかと(昨日もセントーサで見たけれど、本家本元のwater frontにあるマーライオンを拝もうと思った)シティホールの方へ行ったわけだけれど、そこは一番のオシャレなエリアで、そんな所にそんな格好で行ったもんだから、恥ずかしいとは思ったけれど、案外人も少なくて、加えて言えばマーライオンの周りはこんな天気だというのに、自分と同じように観光に来ている人が沢山いて、結構その光景も間延びしていて面白かったから、そこに混じれたという意味で、それなりに良かったと思う。
変でしょ。マーライオン、どこまで間抜けなんだろうって思ったけれど、それに向かってシャッター切ってる自分の姿のほうが余程間抜けに思えて思わず笑ってしまった。
それにしても、シンガポールはどこに行っても街路樹が逞しい。熱帯の特徴なのかもしれないけれど、一本一本の幹がしっかりと主張していて、それを近づいてみるとその息吹と言うか、ここで生きているんだ、というような意気込み見たいなのが感じられて、そこから何歩か退いて見てみると今度はそれらが一つの塊みたくなって、コンクリートの灰色の町を鮮やかに染めていて、ビルとビルの間にうまい具合に木々が入り込んでいるのがわかる。コンクリートジャングル、なんて言葉をどこで覚えたかは定かではないけれど、シンガポールはコンクリートジャングルではなく、なんというか、緑の木と、人の建てた「木」が共存して林立している街なんじゃないかと思った。でも、その印象はバンコク辺りから漠然と感じていて、でもバンコクよりクアラルンプールの方がそれを感じたし、クアラルンプールよりは断然シンガポールだ。残念ながら中国ではあまり感じなかったけれど、でも、中国でも日本なんかよりは木の太さとか余裕というのは感じられた(これはどちらかといえば土地の広さに関わるのかもしれないけれど)。僕は出身が田舎だから東京みたいなコテコテに作られた街を見て憧れみたいなものを持つけれど、あまり「好き」とか「好ましい」感情はいだけない。それは明らかに「緑の繁茂」という感覚が欠落している街だからで、そういうところは利便性を求めて行ったりはするけれど、進んで住みたいだなんて思えない。でも、シンガポールみたいな緑とビルが林立している(見方によってはビルが緑に囲まれている、逆もまた然り)町は、「好き」だと思う。そこには気候も関連して来るんだろうけれど、それ以上に人が緑を意図的に配置しているのがわかるからだ。だから、この繁茂の仕方は反則じゃないかと思うのだけれど、結局「住む」には至らず、当たり前だけれど、明日にはもう出て行ってしまうんだなぁと、なんだか寂しくも思うのだ。


