木の葉揺れれば
上海に着いてそろそろ一週間になって、身を置いている時間が長くなれば長くなるだけその町の雰囲気というか地理というか、そういうのがわかるようになって、最近では繁華街からどうやって小道に入っていけばどんな住宅街に出れるかも把握できるようになってきたのだけれど、それというのもやっぱり日本にいるときにしつこく住宅街を捜し歩いていた時期があったからで、そう言うと変質者扱いされるかもしれないが実際やっていたのは普通目に見ればそういうことで、カメラを持って住宅街にノコノコ入っていくのは基本的に変質者扱いされて当然だと思う。だからそういう緊張感みたいなものがこちらにも必然的に肩に乗っかってくるものなのだけれど、不思議と海外となると「迷い込んだ」というような雰囲気が一番最初に来るものだから、たいしてそんな気負いも必要なくて、そう考えてみれば日本の都会で住宅街に入っていくのは「田舎者がカメラを持って迷い込んだ」ことになるのかもしれないと思ってみたりしたけれど、4×5のどでかいカメラを三脚に据えたまま抱えて、夜中の住宅街に入っていたのだからやっぱりそれは「迷い込んだ」ことにはならないんじゃないか、つまり「変質者扱いされて当然」なんじゃないかとも思える。
それはここ数日ちょっと憑りつかれたように写真ばかり撮っていて、それで住宅街を歩く機会が何故か多くてそんなことを思ったわけだけれど、上海の住宅街はどこも垢抜けていて高層住宅ばかりというイメージが金曜日あたりまで続いていて、そのせいで日本の高層住宅街を連想したのかもしれない。もしくはただ単に自分が変質者扱いされていたときと同じ気分をどこかで味わってしまったのかもしれないけれど、それがそうなのかどうなのか自分でもよくわからないから(つまり無意識の範囲の問題だから)、なんともいえない。それはいいとして、つまりはそんな風に高層住宅のあたりをほっつき歩いていたわけだけれど、土曜日に旧市街と呼ばれるような範囲にまで足を伸ばしたあたりからその「高層住宅ばかり」というイメージがちゃんと期待通りに覆されて、なんだかうれしい気分になった。最初旧市街のエリアに足を踏み入れようとしているあたりで見えたのは聳えんばかりの高層住宅が空に突き出てる風景だったのだけれど、その仰角でそこまで近くないことがわかって、つまりそこまでの距離の間に違う古い住宅があるんだろうと期待して歩いて歩いて、気づけば一時間半過ぎていて、そろそろ脚が限界を言うころと感じ始めて(金曜日に歩きすぎたのか、それとも今までの疲労をほぐしたりなかったのか、金曜日の夜に左脚の感覚が全くなくなって歩くのがとてもつらくなってしまっていたから、土曜日は無理をしないと決めていたのだ)、引き返そうかなと思った頃に目の前に現れたのが右は高層住宅、左は旧市街の趣を残した住宅街という鮮やかなコントラストをもった道に行き着いたのだ。そんなわかりやすい構図はこの旅始まってから初めてで、こういう類のことをテーマにしていたのにそれがずっと曖昧な境界のない風景ばかりを目の当たりにしてきていたものだから、なんだか言いようもないくらいに晴れ晴れとした気分になった。
でも実際によくよく考えてみると、その景観の「鮮やかなコントラスト」はそのまま所得格差の「鮮やかなコントラスト」になっているのだろうし、そうであるならば(仮定ではなく前提の意味で)それを見て晴れ晴れとした気分になるのはお門違いなのかもしれないけれど、事実的にも心理的にも部外者であるこちら側からするとそれをどうこう言われても困るというなんとも淡白な意見があったりするから、気にしていられないとも思える。実際その街路を広々と使って洗濯物を干したりマンションの木々が街路側に作る木陰で涼んだりしていたのは旧市街の人々で、その生活感の丸出しなのびのびとした雰囲気は心ひきつけるものがあるからやっぱり豊かさはお金だけじゃ計れないのかなとも思わせてくれたし、それでもやっぱりクーラーの涼しい風で涼んで快適に部屋の環境を整えられるのはお金がある人たちで、だから外で涼む必要もなくて、そう思うならばやっぱりお金が豊かさを計る指標になるのかもしれないとも思わせてくれたりするから、言ってみればいろいろ思わせてくれたいい道に出会えたのかなぁと思う。

