Lines of Sight ~それぞれのアジアへの視線~

2010.8.5



この2ヶ月で、正直、人生が変わるんじゃないかって思うくらいの出会いを果たしてしまった。
否、人生が変わるんじゃなくて、将来を考え直す、的な。とても良い意味で。

今年の2月末に師匠と写真の話をして、その次の日か次の次の日くらいに奥と君島と三人で会うなんておもしろいことをして、そこから3月と4月はひたすら撮影を重ねた。4×5で日々。そこからフィルムをモノクロからカラーにしたり、あれだこれだとやってみたり、あそこ行ってみよう、を増やしたり、東京の地図をくるくるまわして歩いてみたり、壁にぶつかる気分に追い込まれることの方が断然多かったけれど、3〜5月の三ヶ月でフィルムが120枚を超えたときに、なんとなく、プリントをしなくちゃと思い立って、パソコンに向かおうとしている矢先にテストとレポートに追われ始まった@YNU。

めまぐるしかったな、6月と7月。その間に、殊、7月に、大学の教授と話す機会がグンッと増えて、あれよあれよという間に教授と話が進んで、なぜだか知らないが論文を書くことになりました。
卒論じゃない論文。言わんとしてることは察してください。
でも写真じゃなきゃだめなんだ、って本気で感じた論文の主題でした。写真やっててほんとに良かった。
これからももっとたくさんの場所に行って、人に出会って、写真撮って、文献読んで、もっとたくさんの場所に行って、人に出会って、写真撮って、文献読んで…の繰り返しが続くんだろう、と本気で幸せな気分に浸った。

それでもって、表題の今日、ようやく大学のテストがすべて終了して、明日から、全く違う作品の発端をつかみに西日本をぐるっと回ってきます。ここ半年間、いや1年か、ずっと考えていたことで、それをイメージとして探せたら。いちばん素敵。
約一ヶ月間、論文書きながら取材して、写真撮りためて帰ってきます。作品の発表が遅れてる遅れてると師匠に言われているのもわかるんだけれど、今は本気で発表よりも撮りたい。見て撮りたい。年末までにこの夏のとっかかりも一つのまとまりになることを願って。

今月末、関東に帰ってきたら怒濤のレタッチ→プリントを行おう。

まだまだ見てきた写真がすごく少ないということを思い知り、もっともっと新しいアートが絶えず生まれていて、それを見なきゃ観なきゃいけない、聞かなきゃ聴かなきゃいけない、と焦るけれど、それも大事だけれど、やっぱり目の前に広がる風景とか出会っちゃった人と強制的に対峙する、その瞬間を。

これから夏が始まります。
皆々様もどうか、熱中症なんかにならんでください。

「なんとなく」



最近、「なんとなく」という言葉を考えている。
意味は「特に理由もなく」という感じなんだろうけれど、その「なんとなく」という感覚はいったいどういうもので、その感覚に基づいて写真を撮るっていうのは、どういう感じなんだろう、と疑問に思っている。



先日、車を飛ばして、夜中の三時頃に静岡市に入った。たいした目的があったわけじゃないけれど、でもこれも撮影したい、って思う場所があったからだ。でも、それを調べて行ったはいいけれど、見つけることができず、時間と体力の残り具合から、明け方には引き返す形になった。
その車中でずっと考えていたのも「なんとなく」についてで、ふと、ここ半年、撮影に行く時は車で行くことが多かったことを思った。それも一人で行くよりも誰かを乗せて行くことの方が多かった。
しゃべっていれば居眠り運転はしないし、緊張感も違って、その方がいい、と思っていた。
でも、こんなに運転中に考え事をしていたのは初めてで、それだけ運転に余裕が出てきたのかといえばそうでもなく、ただ単に、一人で撮影地を探している、という状況に身を置こうとしてこなかっただけだと気づいた。
愕然とした。
今までの撮影の中で、「シャッターを切る」と「シャッターを切る」の間の時間は何かしら考えていたし、その何かしらの大部分はその撮っている写真についてだった。
テーマや方向性を「咀嚼する」というのは、何度も考え、何度も吟味し、何度も疑い、何度も迷い、何度も頷いて、何度も考え…の繰り返しだった。
それが抜け落ちていたんだ、と思った。

今、新しく見つけたきっかけをつなぐように、写真を撮りに歩いている。でも、これは元々ある風景を探しに行く旅みたいなもので、発見、というより、捜索に近い。考えれば今までもそうだった。
それが楽しい。
「なんとなく」で写真を撮りに行けないから、こうなんだろうけれど、僕の写真をつなぐのはこんなことなんだろうな、と感じた。


明日もまた、カメラを担いで都内へ出てみます。