ハリラヤ・プアサ
マレーシアのラマダン明けのハリラヤ・プアサを体験しに
マレーシア半島のまん中らへんのカンポン(村)へ行ってきました。
去年、英語学校のマレー系の先生に
「ハリラヤはどこへ行ったら見れますか??」
と聞いたところ
「ハリラヤは普通オープンハウスって言って
親戚や友人宅を回るんだけど観光客用じゃないんだよね。」
と言われ、断念した去年。
しかし、マレーシアの大きなイベントの一つ
ハリラヤを体験せずにマレーシアが語れるか!
と思い、誰か招いてくれないかなー。とか思ったり
前の英語学校の先生のツテを頼ってみたけれど
なかなかハプニング的に行ける事にはならないみたいです。
しかし、なんとか かんとかして
ラマダンが終わる2日前に約束を取り付けることに成功しました。
これはおそらく日本で言うと
正月の2日前に外人が、日本の正月が見たいから見せてください。
そんなかんじのお願いだったと思います。
とても急なお願いだったのに、ありがとうございました。。
と、向かう家がある州がパハン州というところなのですが
誰に聞いてもその向かうべき住所を知らなかったので
州の一番大きな街クアンタンへ。
帰省ラッシュと思われたプドゥラヤ・バスステーションから
前日チケット買いで出発。
途中の高速道路はやはり帰省ラッシュの渋滞でした。
しかし、いざクアンタンに着いてみると
あらら、、向かうべき街はジャラントゥトゥという街で
クアンタンから3時間かかるとのこと。
しかもバスの出発が夜8:30。。。
もっと調べて出発しときゃよかった、と思いつつ
クアンタンの街をぶらぶらしながら時間をつぶしました。
しかし、なんといっても
この日はラマダンデイ。ほとんどの飲食店は昼は開いてません。
だから中華系の店を探して昼食。
クアンタンにもラマダン期間限定屋台がたくさんでていました。
そして、出発の夜8:30。バス来ず。
結局バスに乗れたのは1時間後の9:30。
受け入れ先のおっちゃんにも出発した事を告げ
降りしきる雨の中、出発。
到着する少し前、バスの兄ちゃんがCDを変えてると思ったら
アッラーーーー・ハリラヤーーーーーー・・・・。。
みたいのが急に流れ出したからびっくりしました。
ラマダンが終わり、マレーシアのハリラヤ・プアサの始まりです。
ジェラントゥトゥに到着したら、ちゃんと向かえに来てくれていて
一緒に乗ってた西洋人2人は深夜到着に若干不安そうでしたが。。
セラマット・パギ、ラザックさん。
よろしくお願いします。
訪れたカンポンは「KAMPUNG LADA」 日本語で唐辛子の村です。
村を一直線に走るクアンタンへ通じる道路は199○年に整備されて
それ以前はマレーシア半島一長い川を船を使って移動していたらしいです。
ちょっと前の話ですが、信じられませんでした。
でも、家々は川沿いに建っているのが多いし
まだボートが置いてある家がたくさんあったので本当です。
朝8時、父と長男は正装してモスクへハリラヤのお祈りをしに行くので
付いて行きましたが母と娘たちは食事の支度やらで忙しそうにしていました。
いざモスクに着いてみると、ほんとにローカルな場所でした。
こんな自分みたいな外国人観光客がいない場所なのでどきどきしつつ
「写真撮っていいんですか?? めっちゃ見てるんですけど。。」
「大丈夫、大丈夫。 見てるだけだから。」
といった具合だったので安心しましたが
アッラー・アクバル、アッラー・アクバル。。。
やはり、ジロッ、ジロッ。見られますよねそりゃ。
子供たちは大人たちのお祈りをジャマしないようにモスクの一番後ろに座っていて
女たちは白い格好をしていて、あれが正装らしいです。
約30分くらいのお祈りでした。
自分もマレーの服を着させてもらいました。
シャツがバジュマラユで、布がサルーンという名前です。
ケイタ、これが一家のハリラヤだぞ。
と言ってはじまったのが
父→母→長男→長男妻→長女・・・・と続くあいさつでした。
何を言っているか聞くの忘れましたが
今年の感謝とかとかだと思います。
日本で言うお年玉もあり、小さな封筒に数リンギット入ってます。
やはり子供たちは楽しみにしていて各家に訪れた時にもらってました。
お墓参りをしに行った後は
各家々がオープンハウスしているので
巡るのに同行させてもらいました。
家に行くと必ずお菓子と、軽食を食べるので
一日中食べっ放しです。
これでは、学生帰ったからダイエット開始計画が全くできなさそうです。
どの家に最初に行って、次はこの家、その次はこの家。。
と訪れる順番も大事なんだと言ってました。
ゴムの木がありましたが
ハリラヤの期間は働かないので液がなにも溜まってませんでした。
お菓子 シラップ(花の香りを付けたジュース)
インドでもあるような、葉っぱとか実を粉々にして
食後に噛むやつです。独特な味がします。
ラザックさんが、日本軍が来た時に線路を作った人がいるから話を聞きに行こう。
と訪れた近所の家。
81歳のオスマン・ビン・マットさん
1943年8月18日、当時彼が17歳の時に
突然、日本軍に連れて行かれて線路工事の労働をさせられました。
他の1000人のマレーシア人と共に、最初5日間の監禁。
小さな部屋に1000人もいたため寝るスペースもなし、
食事は白飯に塩味の海魚だった。
6日目、1000人と共に電車に乗せられて移動開始。
グマス→KL→イポー→アロースター→タイに入り、チョンポン→バトゥサトゥ
→バトゥ・スミランプロリマという所へ。
994人のマレー人、華人とともに労働を開始し
彼は線路の65km〜95kmの30kmを担当。
なぜか華人たちだけが橋造りに携わっていたという。
994人の労働者たちは7つの家に分かれて住んでいたが
30%は特に医者もいるわけでわなかったし、悪い労働環境のため亡くなった。
幸い彼は一切病気にはならなかったが
誰かが病気にかかると日本兵が病人をどこかへ連れて行ったらしい。
それがどこかは誰も知る事はできなかったが。
1945年9月、日本軍は労働者を解放。
しかし、日本軍からの給料や感謝の言葉一つもない。
グマスという町で家のあるジェラントゥトゥへ戻る列車を待ったが
一向に列車が来る気配はない。
だから7日間かけて歩いて自分の町へと帰った。
日本兵は彼らをたった一度も殴ったり、叩いたりはしなかったが、
覚えていた日本語は「バカヤロー」だった。
マレーシア政府も、学者も、誰もこの歴史に気を示さなく悲しいため
もし話を聞きに来たい人がいればいつでも来て良い、と言っていました。
話を始めるとどんどん日時、大きさ、空気とか
すごくハッキリと歴史を思い出すのですごかったです。
ラザックさんも、後数年したらこの話は聞けなくなってしまうから
どうしたものかと言っていました。
泊まっていた場所は家族が寝ているとこではなく
ちょっと離れにた場所に作ったシャレー。
早朝にニワトリの声が響き渡りますが、夜は静かだし、蚊は出ないし
すごく、すごくキレイでびっくりしました。
家巡りは続きます。
ちなみにお菓子は各家の手作りで クエ と呼ばれています。
観光客は魚は食べるし見た事あるけど、どっから来るのか知らないだろ!
ここからだよ。と、魚の養殖をしてるトコです。
一掬いするだけで数匹とれます。
家訪問は続き、
同時にクエと軽食も食べ続けます。
食後に食べる甘い米
薄くスライスしてかむ実 ドリアンの花
食べる時水に付けて膨らまして食べるそうです。 と 昔のボート。
スンガイ!!
と喜ぶ声とともに向かった小さい川。
行った時間に他に人はいませんでしたが、
休日の朝とかはすごいたくさんの人が泳ぎにくるらしいです。
気持ちよく泳いでたら筋肉痛になりました。
この身体も弱ったもんです。。
夜、どこからともなく聞こえてくる花火を聞いて
家の少女たちが始めたのは新聞気球って言うんでしょうか。
新聞紙の四つ角をとめて、火を付けると
あらあら、ふらふらと飛びます。
が、これがまた成功の頻度が低くて難しいんです。
この白いのはご飯です。
ホントはハリラヤ1日目しか出さないのですが
余るとこうして食事に出てきます。
細い竹にご飯をつめて、昔ながらの方法で作っている家もまだありますが
今はスーパーマーケットに茹でるだけのやつが小分パックで売ってます。
KLへ戻る時にタッパに入ったクエをもらいました。
突然ハリラヤにおじゃまさせてもらって
ホントにありがとうございました。テリマカシ。
みっちりハリラヤを体験できました。


